あれから11年

東日本大震災から11年経ちました。

あの日、妻とともに近所の双葉中学校」へ、同じ団地のご年配の方を連れて一緒に避難しました。大きな地鳴りとともに次から次へと余震が襲ってくる中、不安な夜を過ごしましたが、この時は、まさかこれが双葉町で過ごす最後の晩になるとは思ってもいませんでした。

「双葉町立双葉中学校」2021年3月 一時帰宅した際に撮影

翌早朝(3月12日)、福島第一原子力発電所から半径10km以上先への緊急避難勧告が発令されたので、急ぎ、学校を出発し、我が家を横に見ながら、国道288号線をとにかく山へ山へと向かいました。ラジオの向こう側から、原子力発電の原子炉内の圧力が上がり続けていることや、ベントの準備が進められているなどの情報が入ってきて、この時初めて原発が大変な事になっていることを知りました。

ご年配の方もご一緒でしたので、長距離の移動は現実的ではないと判断し、なるべく近い避難所を探し、大熊町の避難場所であった「田村市常葉体育館」へ避難させていただきました。

常葉体育館 2011年3月13日撮影

この体育館でも一晩過ごしましたが、ご年配の方の体力や体調がとにかく心配でしたので、次の日の15時頃には体育館を出発。お一人を双葉町の避難所となっていた川俣町へとお連れし、残りのご夫婦は息子さんが横浜方面に住んでいたので、わたしたちも東京の実家へと向かう途中にお送りすることにしました。

ほとんどの区間で高速道路を使えず、道路も不安定な中での12時間以上の長旅。午前1時半頃、首都高速「八潮IC」からようやく高速に乗ることができましたが、車が一台も走っておらず、ずっと首都高速を貸切状態でした。東京都心もいつものネオンの明るさがなく不安を感じる中(あんなに暗い東京は初めて見た)、後部座席に座っていたおばあちゃんが「キレイだね」と一言。お二人の辛抱強さと前向きさは、わたし夫婦を何度も力付けてくれたものでした。

午前3時半頃、横浜町田IC付近で、ご年配のご夫婦を息子さんにお渡しすることができ、わたしたちは実家のある町田へと向かったのでした。

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